大久保由美子のメール新聞〜中国からの手紙 vol.4

「チベット編」

今年1月になって、私は「一緒に高所登山をしよう」と懸命にマミを説得した。昨年一度、彼女と泊まりがけで岩登りに行って以来、どうにも一方的に彼女が好きになってしまったのだ。

最初、チベットのチョー・オユー(8201m)という山はどうかという話もあったが、彼女が仕事を1ヶ月以上休めないというので、短期でしかも安く行けるという冒険家九里徳泰氏の雑誌の記事を読んだ2人は、目的の山を7546mのムスターグ・アタとした。

私は「女性2人で自立した楽しい登山を」ということに意義を見いだしていたので、どの山でもさほどこだわらなかったが、8000m峰に多少未練があったのも事実である。

そんな時、3月のカナダ出発直前、ドイツ人クライマーの友人ラルフが、Eメールで
「チョー・オユーなら、知り合いのコマーシャルエクスペディション(商業隊)がたくさん入るから、Good costで紹介できるよ」
と言ってきた。

普通、海外登山といったら、数年前からじっくり計画を練って着々と準備を進めるものだが、ひらめきや直感(と言ったら聞こえはいいが、ほとんど思いつき)で行動を決める私にはそんなことはできる芸当ではない。これは渡りに船である。カナダに向かう飛行機の中で、
@3ヶ月の登山スクール→Aアラスカのデナリ登山→Bマミとのムスターグ・アタ登山→Cその高所順応を生かしてチョー・オユーにワン・プッシュ(一撃で登ること)で登れたら、なんて今年は充実するだろうと思いついた。

これはひどくすばらしい案のような気がして、思いついた夜は興奮して眠れなかった。このとき私はよく調べもせず、ムスターグ・アタとチョー・オユーは近いと思いこんでいた。だが実際は、直線距離でも1700km、移動距離にして飛行機3300km+車700kmもあった。

資金、ヴィザ、移動手段など問題は山積みであったが、楽天家の私はこういうとき、
「なんとかなるサ、だめならまっいーか!」
と深く考えないタチである。さほどプッシュしなくともスムーズに事が運ぶときは「Go!」=山の女神が招いている、98年のようにプッシュしてもうまくいかないときは「Wait」=まだ時期ではないと考える私は、驚いたことにBまで思いどおりに事が進んだため、
「チョー・オユーもきっとうまくいくだろう」
と脳天気にも密かに思っていた。

しかし、正直言うと、チョー・オユーのベースキャンプにたどり着けるかどうかは、ムスターグ・アタ登山を開始した時点でもなお、半信半疑であった。というのは、ヴィザの期間が足りないうえ、中国のチベット自治区は特殊な地域で、一般ヴィザの他に旅行許可証が必要なのだが、この時点でフライトチケットも含めて何もそろっていなかったからだ。

ところが、幸いにもムスターグ・アタ登山をアレンジしてくれたカシュガル登山協会のキョウムさんが面倒見のいい人で、登山直前に無理矢理頼んだことをすべてクリアしておいてくれた。

9/27が有効期限のヴィザ(中国は通常、入国30日がヴィザの期限で、それ以上滞在したいときは、公安局に行って延長申請(最長1ヶ月)しなければならない)を、パスポートと写真を預けて登山中に10/15まで延長しておいてもらうことに成功。また、自分が電話での英語の交渉に自信がないものだから、今回ジョイントさせてもらうコマーシャルエクスペディション(以下CE)、スコットランドのヘンリー=トッド&ニュージーランドのラッセル=ブライス隊の担当連絡官である、中国チベット登山協会(以下CTMA)のMr. Douにキョウムさんから電話してもらい、すべてをアレンジしておいてもらうことができた。

ウルムチからラサへは直接のフライトがないため、成都か重慶か西安を経由しなければならない。そこで一番便数が多い成都を経由することにした。ウルムチ−成都間のフライトチケットはカシュガルで問題なくとれるのだが(ちなみに料金は1350元=約18000円)、成都−ラサ間は、通常はツアーという形で旅行会社を通じてでしかフライトを予約することはできない。

「キョウムさんが言うように成都に迎えが来ていなかったら、途方に暮れてしまうなぁ」
と不安な機中であったが、大雨の西都・双流空港に着くと、ちゃんと四川省登山協会のクライマー、リゥさんと日本語のできる若い女性が迎えに来てくれていた。

市街地までの片道車で40分の送り迎え、ラサまでのフライトチケットの入手(1200元)、「西蔵自治区体育委員会」発行の特別旅行許可証の手配、ホテルの予約から地元の四川料理屋で本場モンの激辛料理までおごっていただき、いったいどういうシステムになっているのかと思っていたら、接待費730元(約1万円)で片が付いたのだから安いものだ。中国では公の機関を通すとこんなにも物事がスムーズに運ぶのだ。

生き馬の目を抜く中国の大都市に1人で放り出されていたら、また北京空港の白タクのようにあっという間にボラれるのが落ちだった。おかげで、ムスターグ・アタ登山で使った汗くさい服のクリーニングもホテルで済ますことができ、翌朝早い便で無事チベット入域。

96年に1人で1週間ばかりお寺巡りをしたことがあるので、2度目の訪問である。思えばその時、荒涼とした平原の向こうに白くそびえるヒマラヤの峰々が見たいと思い、高いお金を払ってタクシーをチャーターしたものだ。あいにくモンスーン中で、ほとんど雪を抱いた山は見えなかったが、今度こそ、その夢が叶うのである。

ラサのクンガ空港にはMr. Douが迎えに来てくれていた。若くてハンサムな四川省のリゥさんと違って、こちらは
「一筋縄ではいかないぞ」
と顔に書いてあるような典型的な中国役人顔の小男である。

とはいえ、ラサ市内は空港から100kmもあるので、約50kgの荷物を抱えて右往左往している私にとってはとてもありがたい。(これだけ大荷物を抱えていると飛行機に乗るたびにエクセスチャージを取られるのだが、1kg=約10〜30元(130〜400円)だから、日本−北京間の1420円/kgに比べればずっと安い)

標高が急激に上がったため(ラサは3600m)、ひんやりとした風が気持ちいい。気持ちいいのだがやはり高度を感じる。こういうときは眠ってはいけないのだが、数日睡眠不足が続いていたため、ついランドクルーザーの中で爆睡してしまった。

市内に着くと、有無を言わせずCTMA隣りの「ヒマラヤ・ホテル」(二流)に連れてゆかれ、
「今日は土曜日、明日は日曜日で、月曜にならないと許可申請ができない。許可が出るまでこのホテルにいるように。食事はサインでできるようにしておく」
と一方的に告げられ、明日にもチョー・オユーのベースキャンプ入りできるかと思っていた私はがっくり。何の許可だかわからないが、ここから700km近くあるチョー・オユーまでのランドクルーザーの手配のことを言っているのだろうか。

一流の「ホリディ・イン」か「チベット・ホテル」に泊まろうともくろんでいた私はただでさえマインドが萎縮しているのに、あろうことかホテルに着いてまもなくひどい高山病の症状が出てきた。ムスターズ・アタ登山後、平地で4泊しただけなのになぜ???と考えても答えは出ない。吐き気、立っていられないほどの貧血と症状は悪化するばかり。

何か胃に入れなければと、夜這ってホテルのレストランに行き、少量の食べ物とフルーツ、大量のお茶(高所では一日に4リットルの水分を取らなければならないと言われている)を食した以外は、なんと21時間も眠り続けてしまった。どうやら睡眠不足が原因だったらしい。町までの車中で眠ったのもいけなかったのだろう。

翌朝、いきなり
「私はチベット登山協会のナワン。今からランドクルーザーでチョー・オユーBCに向かいます」
という電話でたたき起こされた。

後でわかったことだが、ラッキーにもラッセル隊を訪れた日本人トレッキング客2人をラサ空港まで送りに来たランドクルーザーが、野菜を持って再びチョー・オユーに戻るというのでたまたま便乗できたらしい。

そのまま行けば国境を越え、ネパールへと続く"中尼公路"をいざ出発。国境越えをする道路といっても、未舗装のがたがた道。空気がとても乾燥しているので道の土埃がすごい。4WDのタイヤは車内にも容赦なく粉塵を巻き込む。

1日で強行するのかと思っていたら、その日はラサから280kmのシガツェに泊まるという。途中、ガソリンスタンドで日本の若者2人に声をかけられるが、服装から何からどう見てもチベッタン(要するに汚い)。
「これから馬を買いに行くのだ」
と言っていたが、まァ日本人はどんなところへ行ってもよく出没するものだ。

宿はできたばかりの一流ホテルのようだが、さすがにここまでくるとフロントで英語は通じないし、国際電話もできない。しかたないので郵便局の公衆電話を使って日本に電話をかける。4〜5分しゃべって38.5元(約500円)だから、通常ホテルでかけるよりは安い。

夕食は、目つきのいい関西系のチンピラのような顔をしたナワンさん(顔もさることながら黄金のごつい指輪といい、とがった革靴といいまさにチンピラ。でも、とてもやさしい)が、地元の小汚い店に連れて行ってくれるが、食欲がない。辛い野菜入りスープ餃子とトゥクパ(チベット風うどん)、コーラ(当然水は飲めない。缶の口も丁寧に拭かなければ危ないのだ)を注文してくれ、一生懸命勧めてくれるが、一口口に入れただけで「ウッッ!!」ときてしまう。

味は最高なので無理して少し食べたら、この後大変なことになってしまった。やはり体が受け付けないときは食べてはいけないのである。夜中、何度も気分が悪くて目が覚めたのだが、明け方ついに、全く消化されていない胃の内容物が全て吐き出され、たとえようもないひどい下痢の苦しみが始まった。あたったのだ。

生まれてこの方、数えるほどしか物を吐いた記憶のない私にとっては最悪の事態である。しかも今日は内臓がひっくり返るようなデコボコ道を360kmも離れたテングリ(標高4342m)まで移動しなければならない。水さえ飲んだ端からすぐ泡となって出てしまうような状態なので、さすがに食い意地の張っている私も断食開始。

日本から持参の医療用下痢止めと海外登山の時はいつも愛用しているミュージック・メディスン(音楽にサブリミナル効果を利用してなにやら吹き込んであるらしいテープ。そのタイトルもズバリ"健康回復力の増強"。思いこみの激しい私にはこれが実に効くのだ)が功を奏したのか、翌日ようやくまともに食べ物を口にすることができた。

ランドクルーザーの中で丸1日苦痛に黙って耐えていたら、気がつけばここはもうヒマラヤの麓。天気が不安定で雲の中ではあったが、途中5220mのヒマラヤ展望の名所である峠越えもあった。どこまでも続く茶色の土の丘だけの、何もない荒野には「地・水・火・風・空」を意味する色あせた五色の祈りの旗、タルチョがただ風に揺らいでいる。「この世の果て」という表現が思わず頭に浮かぶ。