大久保由美子のメール新聞〜中国からの手紙 vol.5

「チベット編」

テングリまでくると、もうほとんどネパール側のバッティ(ロッジ)と雰囲気は変わらない。虹色のエプロン、ターコイズの帯留めやピアスが目を楽しませてくれるチベッタン衣装の老婆が魔法瓶から注いでくれるミルクティー、壁には様々な登山隊のポスターやステッカー。友人ラルフの会社のステッカーも窓に貼られている。

ここから車で1時間も走れば、ようやくチョー・オユーのチャイニーズ・ベースキャンプである。本当の登山隊のベースキャンプはそこからさらに1日歩かなければならない。チャイニーズ・ベースキャンプとは、CTMAのリエゾンオフィサーと中国アーミーが滞在する草原地帯のテント村で、BCとは無線でつながっている。登山隊の荷物を運搬するヤク(黒い毛の長い牛)とヤク使いの手配などもここでしてくれるのだ。

北京時間で正午前(日本時間▲1時間)、ネパール時間では午前9時半の到着だったので、本日中のBCへの移動を希望するが、
「今日はもう遅い」
とみんなに止められてしまう。結果的には、いまだに下痢は続いていたし、熱も38度近く、脈も平静時で130近くあったので、よい休養になった。

翌日、ラッセル隊のクライミングシェルパ、カサン(彼はエベレストの日本女性第三登目にあたる続素美代氏を一緒に頂上に導いた)、チベット人のヤク使い、ヤク2頭と一緒に1日だけのキャラバン開始。海外登山中でも一番好きな時間の一つである。

まっ白い雪に爪で引っ掻いたようなヒマラヤ襞の美しい巨大な山塊、大きなアイスクリームがぎっしり寄せ集まったような氷河を見ながら、ほぼ危険のない石ころ道を、ボーッと考え事をしながらポクポクとヤクと一緒に歩く。これが成功した登山の後となると、ほとんど至福の境地である。生きる喜びだけが全身をみなぎり、世界のすべてが輝いて見えるのだ。

途中、膝くらいまでの川の徒渉もあったが、標高差約700mを7時間かけてゆっくり歩き、5600mのBC入り。誰もいないシーズンオフのムスターグ・アタに比べるとここは別世界。色とりどりのテントがいくつも張られ、各隊に五色のタルチョが張りめぐらされている。殺風景な氷河の上に突然現れたほとんど一つの村である。ここに一ヶ月以上少なくとも100人以上は住んでいるのだ。

現在のヒマラヤの状況を少し説明すると、8000m峰、特に言わずと知れた人気の世界最高峰エベレスト、技術的に比較的易しい中国のチョー・オユー、シシャパンマ、パキスタンのガッシャーブルムU、ブロードピークなどは、シーズン中コマーシャルエクスペディション(以下CE)が集中する。

CEとは、直訳すれば商業隊あるいは営業遠征隊だが、オーガナイザーが食・住(場合によっては衣も)と雇ったシェルパによるルートおよび経験による情報を提供し、クライアントはその対価を支払い、登山を楽しむというもの。

客層はだいたい、時間もお金もある裕福な中高年が主で、最近は日本人中高年も進出してきている。ヒアリングしてみると、その職業は医者、技師、コンピューター関係など手に職を持ち、長い休みをやりくりしやすい人が多い。

今回ここチョー・オユーでは知っているだけで5〜6隊のCEが入っており、そのうち2隊に計3人の日本人中高年男性が参加していた。値段は隊によって異なり、7800〜18000$と差がある(平均10000$くらいか)。もちろんサービスの差でもある。

私は最安値のヘンリー隊に、さらにかなりの友達価格で(97年ネパールのアマダブラムで知り合った)入れてもらったのだが、だから参加を考えたというのが事実である。本来なら、近年ポストモンスーン(秋)はプレモンスーン(春)に比べて成功率が格段に低いと考えているので(年々モンスーンの後へのずれ込みがひどくなっているように思われる)、秋は避けたいところだ。

何でも自分たちでやらなければならなかったムスターグ・アタに比べ、何もかもアレンジされ、居心地のいいCEだが、しょせん商業隊、大きな問題がある(考えようによってはメリットでもあるが)。それはリスクを取りたがらないことだ。

ラッセル隊のシェルパが
「エベレスト、チョー・オユーともに7回行って2回成功した」
と言っていたが、7分の2、大量にシェルパを雇っていても成功率はこんなものだ。事故を起こしたくないので、よっぽどの好条件でないとアタックさせないのである。96年春のエベレストCE大惨事(日本女性エベレスト第二登の難波康子氏が亡くなった事故)が記憶に新しい今、無理からぬ事である

ひどい下痢に犯されながら遠く新疆から1週間もかけてやっとチョー・オユーにたどり着いた私は、着いた早々不運な知らせをヘンリーから聞かなければならなかった。
「例年なら、この時期雪が降っても風が吹き飛ばしてベストコンディションなのだが、今年は風が吹かず雪が深くなるばかりで雪崩が非常に危険な状態だ。よってラッセル隊ともに28日に撤収が決まった」
と言うのだ。

私の到着は予定通りの22日、この決定が23日。残された時間は、たったの3泊。しかもすでに7300mのアタックキャンプは撤収済み。プロの登山家ならその手前のキャンプ2(7000m)からのアタックにすれば不可能ではない日数だが、残念ながら体が本調子ではない私には3泊でBCまで下りてくる自信はない。

10月4〜5日頃までベースキャンプにいると言うから、十分な時間があると思って参加したのに、これには本当にがっかりした。ここまでスムーズに事が運んだので、てっきりチョー・オユーの女神は私を呼んでくれているのだと思っていた。天気だっていい。非常に残念だが、CEに参加したからにはオーガナイザーの決定に逆らうことはできない。それがいやなら最初から2倍以上のお金を払って自分で許可を取るしかない。

BCでごろごろしていてもしかたないので、6500mくらいまで遊びに行ってきた。登頂の可能性がないのに上部に上がるのは初めてのことであるが、眼下に広がる時を止めたかのような白い氷河とそれを取り囲むようにしてそびえ立つヒマラヤの峰々に息をのむ。登れなくても来てよかったと素直に感じた。そしてチョー・オユーはただ穏やかにほほえんでいるように見える。なぜだか頂きはとても近く感じる。山は逃げない。また来ればいいのだ。

26日、日本人グループ「クライミングファイト」のメンバーが今シーズン初の登頂を果たした。中年男性1人、中年女性1人、若い女性1人の3人の隊だ。雪崩を怖がってシェルパも行かないアタックキャンプ上部を押し切った。快挙である。

ヒマラヤはどうしてもリスクを取らなければ成功はおぼつかない。そうでなければ7回に2回の成功率である。同時に出発した南西壁(一般のルートよりずっと難しいヴァリエーションルート)にソロで挑んでいる登山家北村俊之氏、数日後アタック予定の若き日本山岳会の4人の登山家たち、彼らはともに自分たちで隊を組織してきている。心からみんな事故なく成功して欲しいと願う。

27日の午後、われわれ14人のクライマーの隊荷を運ぶヤクが30頭近くBCにやってきた。彼らは全員、首には大きな鈴、耳には糸でこさえたイヤリングでおめかししている。ヤク使いのチベッタン(男性)もみんな身なりは汚れていても耳や首は青いトルコ石で着飾り、長髪は結って赤い糸を上手に施している。小学生くらいの子供もいる。

いつも思うのは、もともとこういうところに生まれ、生きることだけを考えて家畜を追う人生だったら、どんなに幸福だったろうかということである。私はどこに行っても現地人に似ていると言われる(白人の国では決してあり得ないが)。今回もチベッタンやネパリに言われた。なかには
「アー ユー フロム シンガポール?」
というのもあった。前世は放牧の民だったのかもしれない。そんな他愛もないことを、少し欠け始めた満月に照らしだされた青白い峰をテントから眺めながら考えられるのも、海外登山の魅力の一つである。

今回のムスターグ・アタ登山、チョー・オユー登山にご協力いただき、心から感謝申し上げます。
株式会社ゴールドウイン ノースフェース事業部 高所登山衣類一式、遠征バック等ご提供
株式会社山と渓谷社「Rock & Snow」編集部 スライドフィルムご提供
冒険家 九里徳泰氏 ムスターグ・アタ情報ご提供

追伸 毎度個人的趣味におつきあいくださり、ありがとうございます。予定より早く日本に帰国いたしました。昨年10月から数えるとなんと約半年の海外滞在でついに資金も底をついてしまいました。しばらくはおとなしく日本にいる予定です。これをご覧の方の中に、何かいい仕事をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせくださいね。では再見!