1.はじめに

 「没入」とは、なにかに没頭したり、熱中している状態のことで、そのときやっていることや目の前で起こっていることに、心がとどまっている状態を指している。

 たとえば自転車に乗っているとき、「電車に間に合うだろうか」というような”未来”や、「昨日は失敗したなあ」というような”過去”に意識をめぐらせている状態では、自転車に乗ることに没入しているとはいえない。駅という目的地に向かいながらも、頬を切る外気のすがすがしさや、ペダルをこぐ筋肉のしなやかさのような”現在”を感じているとき初めて、自転車に乗るという行為に没入しているといえるのである。

 多くの人が、スポーツやゲーム、鑑賞活動や製作活動といった、”現在”に注意を向けやすい活動に余暇時間を費やす。まるで、「没入」を求めているかのようである。自由に使える時間に好きな活動をしているのだから、没入して当然といえるかもしれないが、逆にいえば、没入できるからこそ、その活動が好きになるとも考えられる。

 考えてみれば、わたしたちの行為は、@一つのことに持続的に注意を注いでいるか、A複数のことに注意をさまよわせているか、Bなににも注意をはらっていないかのいずれかにわけることができる。このうち没入は@の状態であり、加えて注意を向けていることを意識していない状態といえる。

 Aの状態がわたしたちにさまざまな葛藤をもたらすのに対して、@やBの状態では矛盾を感じることがないので、心理的コストは低減する。そのため、人は@やBの状態から覚めた後に「快さ」を感じ、その行為に対するモチベーションが高まるのではないだろうか。特に、能動的に対象に関わっている@の状態は、快さだけではない効果を生み出すのではないかと考えられる。

 そこで本調査では、人々の没入体験の実態を把握するとともに、没入体験がなんらかの効果を産み出すかどうか、また産み出すとしたら、没入体験のどのような性質が効果と関わりがあるのかを考察する。さらに、日頃から没入しやすい傾向を持つ人は、ものごとと正面から向き合う時間が多いため、課題を達成しやすく、そのため自己実現的なのではないかと考えたことから、日頃の没入頻度と自己実現傾向との関連も検討する。


2.フローとは

 心理学の分野において、人が没入しているときの主観的な状態に焦点を当てたのが、アメリカの心理学者である、マズローのピーク体験(peak experience)の概念や、チクセントミハイのフロー(flow)の概念である。

 ピーク体験の概念は、恋愛、芸術鑑賞、創造活動などによる至福の瞬間、恍惚の瞬間をもつ調査対象者から、そのときの感覚について得られた言及をもとに導かれたもので、様々な特徴をもつB認識(Bは「Being」:生命{ありのままであること}の略)をともない、自己に立ち返ったとき、おのずと成長へと導かれる(「Becoming」:生成)とされている(Maslow,1965)。

 一方、フローの概念は、内発的に動機づけられた活動を行っている人々(ロック・クライマー、チェス・プレイヤー、作曲家、ダンサー、バスケットボール選手、外科医など)に、活動に従事する理由をたずねることによって、うまくいっているときの経験の特徴を抽出したものである。

 フローは、「一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをすることのために多くの時間や労力を費やすような状態」(Csikszentmihaly,1990,邦訳p.5)と定義されている。

 この“フロー”という言葉は、人々が最高の状態の時どのように感じたかを表現する際、たびたび「私は流れ(flow)に運ばれたのです」や「流れている(floating)ような感じだった」と述べたことに起因する(Csikszentmihalyi,1990,邦訳p.51)。
 以下、抽出された8つの特徴を解説する。

【フローの条件】

@明確な目標とフィードバック
 一連の明瞭な目標に取り組み、活動の進展について連続的にフィードバックを受け取ることができる。そのフィードバックにもとづいて対応を調整することで、ちょうど手頃な挑戦、自分の能力を十二分に発揮させる挑戦に取り組むことができる。

A機会と能力のマッチング感
 現在の能力を伸長させる(現在の能力よりも高すぎも低すぎもしない)と知覚された挑戦、あるいは行為の機会の存在。自分の能力に適合した水準で挑戦しているという感覚。

 このような条件のもとで、経験はある瞬間から次の瞬間へと切れ目なく次々と広がりをみせ、人は次のような特徴をもつ主観的な状態へと入る。

【主観的な状態】

B注意の集中
 その瞬間にやっていることへの強い、焦点の絞られた集中。現在行われている環境との相互作用に注意のすべてが向けられている。

C行為の統制感覚
 自分の行為を統制できるという感覚。あるいは、統御の可能性を感じている。逆に言えば、日常生活で典型的に現れる、「コントロールできない」という懸念が欠如している。

D行為と意識の融合
 その結果、現在行っている行為から切り離された自分自身を意識することがなくなる。つまり、自身の行為を意識してはいるが、そういう意識そのものをさらに意識するような二重の視点が解消されている。また、一見苦もなく行われているようにみえる動作の感覚。フローの最も普遍的で明瞭な特徴。行為と感知の融合は、その場の環境との相互作用に直接関わりのない対象物を感知する注意余剰がないことを意味している。その対象物には自己や時間も該当する。

E内省的自意識の喪失
 社会的行為者しての自意識が喪失している。周囲の世界から自己を切り離す自意識が失われると、しばしば環境と融合する感覚をともなう。なお、活動中は自己についての意識は消失するが、これに反してフロー体験の後では、最適な水準の挑戦が既存の能力を伸ばす(Vygotsky, 1978)ため、自己感覚はより強く現れる。

F時間感覚の変容
 行為の最中は、時間の流れがゆっくり感じられたり、時間の概念がなくなったりするが、行為の後にふりかえってみると、実際より時間が速く過ぎたように感じられる。

G自己目的的(Autotelic)経験
 経験それ自体から心理的な報酬が得られていると認識された状態であり、成功の結果得られる報酬を意識していない。そのため、活動の最終的目標がしばしばその活動を行うことの単なる理由づけとなる。

 総じて言うと、フロー体験とは、目標を志向し、自分が適切にふるまっているかどうかについての明確な手がかりを与えてくれる行為システムの中で、現在行っていることに自分の能力が適合しているときに生じる感覚である。そのとき人は、自分の行為をコントロールできていると感じる。注意が強く集中しているので、その行為と無関係のことを考えたり、あれこれ悩むことに注意を割かれることもない。そのため、自意識は消え、時間の感覚はゆがめられる。このような経験を産む活動は非常に楽しいので、人々はそこから得られる利益についてほとんど考えることなく、それ自体のためにその活動を自ら進んで行うようになるというのである。

 本調査は、これらフローの8つの特徴と、ピーク体験のB認識の一部を援用して行うこととする。
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